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終戦の年、1945年【 昭和20年 】の8月9日に、6日に広島市に投下されたウラン型原子爆弾に続くプルトニウム型の原爆が投下された。
ナガサキに投下された原爆のコードネームは「 ファットマン 」と呼ばれ、積載機のB29は「 ボックスカー 」であった。
この原爆投下で犠牲に、なられた広島市民の人数は7万3千人とも7万5千人とも言われており、ヒロシマ・ナガサキの犠牲者数を合わせると20万人以上にも上ると言われている。
時刻は8月9日の「 午前11時2分 」であり黙祷も、この時間に合わせて「 1分間 」行われる。
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ヒロシマの黙祷時刻は6日の8時15分だが、なぜ黙とうは1分間なのか?
その理由は30秒では、黙祷していない空白の時間が出来てしまうからである。
黙祷の意味は「 黙( だま )って祷( いの )りを、ささげる 」と言うことだが、凄惨な原爆の被害で犠牲になられた長崎市民の方々の追悼を行う。
【原爆投下日・終戦記念日に黙とうを】広島・長崎の原爆投下日及び終戦記念日における、追悼と平和祈念のための黙とうにご協力をお願いします/日時 広島市:8月6日(日曜日)午前8時15分、長崎市:8月9日(水曜日)午前11時2分、終戦記念日:8月15日(火曜日)正午
— 東大和市 (@higashiyamato18) 2017年8月1日
大体、テレビで放送される時には皆、目を閉じているが目をつぶる行為自体は各自の判断に委ねられるので、これを強制するものでは無い。
原則は話しを止めて動かない事だが体の向きは長崎市の方角を向く。【 正確には爆心地の長崎市松山町171番地 】
黙祷する場所は何処に居ても出来る。
【 この記事ページの目次 】
1955年に完成した長崎市の「 平和祈念像 」は彫刻家の「 北村西望 」氏【 満102歳没 】が設計を手掛けた。
設置場所は長崎市松山町の平和記念公園内であるが、毎年8月9日に催される記念式典と黙祷は、この記念像の前で執り行われる。
ナガサキの像のモデルは、特定の人物をイメージしているわけではないが形作られているポーズには、それぞれ意味がある。
( 以下「 Wikipedia 」から引用 )↓
“垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、
水平に伸ばした左手は平和を、
横にした足は原爆投下直後の
長崎市の静けさを、立てた足は
救った命を表し、軽く閉じた目は
戦争犠牲者の冥福を祈っている。”
( 引用ココまで )↑
台座部部を合わせると合計5,000万円もの制作費用が投じられたが、当時はまだ被爆者への国や市などからの社会的援助が、なされておらず様々な議論を呼んだ。
( 以下「 福田須磨子の、ひとりごと 」から引用 )↓
“何もかも嫌に、なりました
原子野に[ 存在 ]する巨大な平和像
それはいい、それはいいけど
そのお金で何とかならなかったかしら
石の像は食えぬし腹の足しにならぬ
さもしいといって下さいますな
原爆後十年をギリギリに生きる
被災者の偽わらぬ心境です”
( 引用ココまで )↑
詩人で作家の福田氏自身も被ばく者である。
ところで、この平和祈念像が建てられた場所が長崎に落とされた原子爆弾の爆心地だと、誤解されていらっしゃる方も居ると聞くが、正確な場所は平和公園南側の「 原爆落下中心地碑 」である。
毎年催される平和記念式典は、長崎市平和記念公園の平和祈念像の在る場所で粛々と行われる。
昨年、2016年の式典には安倍晋三内閣総理大臣【 62 】も列席され、原爆の被害で犠牲になられた市民の方々へ哀悼の誠を捧げている。
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この事は別ブログでも、したためたのだが長崎市に原爆が投下された1945年8月9日のみでなく、被害を受けた広島市にも8月6日にもB29の爆撃を知らせる空襲警報が発令される事は無かった。
ざっくり記すなれば、当時の日本軍を統括する組織だった「 陸軍参謀本部 」から、広島・長崎の軍司令部に連絡が、いっさい来なかったからである!
では、参謀本部はB29の本土空襲を知らなかったのか?
否、知っていたのである!
( 以下「 8月6日に広島の空襲警報が鳴らなかった理由 」から引用 )↓
参謀TOPである梅津美治郎総長の
側近と言われる「 井上忠男 」中佐の
備忘録資料が防衛省の防衛研究所に
保管されて居る事が分かった。
長崎市に原爆が投下される9日の走り書きには
「 特殊爆弾V675通信上、事前に察知。
長崎爆撃5時間前 」と、ある。
( 引用ココまで )↑
より詳しい内容は「 瓦版茨城 」の記事「 広島原爆の日に空襲警報が鳴らなかった理由はなぜ? 」に綴ったが、なぜ日米戦争当時の陸軍参謀位本部が長崎と広島の軍司令部に事前に知っていた情報の伝達を行わなかったのかは不明だとされる。
5時間前に暗号通信を傍受した参謀本部直属の組織、「 陸軍特種情報部 」はVから始まる3桁のコールサインを読み取った。
そして、参謀本部に空襲情報を報告していたのである。
だが、そこから先が止まってしまった。
いまさら「 たられば 」を申し述べても何も始まらないが、もしも6日及び9日の原爆投下前に空襲警報が発令されていれば、多くの市民の尊い命が助かったのだとすれば悔やまれてならない。
長崎・広島に投下された原子爆弾の被ばく者たちは、その後も「 結婚する相手として適当か 」などという差別的な扱いを受けたとする証言を聞いた。
これは、被ばく者から生まれる子供に放射能が遺伝しないか?などと疑われたためだが、結論から言うと遺伝の影響は無い。
しかも被爆した放射能の量いかんに関わらず、その影響は科学的な見地に則った追跡調査に於いても確認され無かったのである。
追跡調査は放射線を受けた原爆の被ばく者、6万7千人の子供の生存率や染色体異常の人数も40年に渡って行われたが、結果的に被ばく者では無い方々のデータと比較して、変化は見られなかった。
この様な差別も含め、被ばく者の方々は二重苦に遭われていたのである。
第二次世界大戦当時に様々な苦難を経験してこられた方々の証言は貴重であり、後世に生きる我々は原爆投下の惨状だけではないこれらの教訓を風化させてはならないのである。
NHKがテレビ番組で、広島に落とされた原子爆弾投下の30分後に降った「 黒い雨 」の正体を検証し放送していた。
室内で保存された漆喰の白壁に、原爆が落とされた当時の広島に降った黒い雨の付着が、くっきりと残されていた。
長崎の原爆のプルトニウムとは違う、ウラン型のものだが、黒い雨の成分を科学的に徹底分析したのである。
結果、半減期30年の「 放射能セシウム137 」が検出され、感光版に映し出されたのである。
他にも、「 すす 」の原料である炭素や原爆投下に拠って舞い上がった土の成分であるケイ素や鉄分も検出されたのである。
当持は、日米開戦に至るまでの様々な事情が有ったのだろうが、戦争は悲惨な影を残す事だけは間違いない。
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長崎、そして広島の黙とうは、この様な核兵器使用の過ちを2度と繰り返さない為の儀式で在るように思う。
2017年の今年も長崎市の黙とうは9日の朝11:02から、広島市の黙とうは6日の朝8:15から、それぞれ1分間ずつ厳粛に行われる。
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