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昨日も、お伝えした天下の悪法で名高い「 生類憐れみの令 」の、お話し。
生類憐れみの令と言えば、代表格は「 お犬様 」だが、実は135回に渡って発布された御触書きには、様々な生物の種類が列挙されていたようである。
上記の内容は後述するとして、生類憐れみの令では「 蚊 」の生命を奪ってもNGだった。
実際に、どこかの城中で自分の、ほっぺたに止まった蚊を叩いた武士が密告に拠り、流罪となっている。
その武士の名前は伊東 基祐( 伊東淡路守基祐:いとうあわじのかみもとひさ )で蚊の生命を奪って流罪となった。
72件あった処罰の内の1件だが、この行き過ぎたあたりが生類憐れみの令が天下の悪法と、言われるゆえんなのではなかろうか。
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あなたは「 蚊の生命を奪って流罪だなんて、そんなバ蚊な話しが有るか!? 」と思われる蚊も知れない。
し蚊し、この史実は事実である。
東京都江戸東京博物館の図書室にも記録が残されている。
『 国史大系 』第42巻によると、貞享3年6月6日
「 小姓伊東淡路守基祐奉職無状にて。
南部遠江守直政にあづけらる。」
じつは小姓の伊東淡路守基祐を密告した武士も連帯責任を問われて閉門処分を食らっているのだ。
蚊を叩いた後に、ほっぺたに血が付いていたのを見た武士が密告したと言われている。
だが、じつは密告した武士も閉門処分、つまり謹慎処分を言い渡されている。
その理由は「 なぜ、そばで見ていたので止めなかったのだ? 」というものだった。
また、水撒きも「 ボウフラが絶命する 」という理由で禁止 されている。
徳川幕府の第5代将軍の徳川綱吉公【 享年64 】が発布した「 生類憐れみの令 」で禁止した動物の生命は実に多岐に及ぶ。
なにも犬や蚊ばかりでは無い。
実際、江戸町触から「 生類 」の中身を検証すると
捨て子禁止や行き倒れ人保護といった
弱者対策も含まれていますし、他方
犬・馬等を中心としながら、
猿・鳥類・亀・蛇、きりぎりす・松虫から、
いもりに至るまで、実に多様な内容を
含んでいることが明らかになります。
つまり、ほとんどの生物が生類憐れみの令の規約に引っかかるということだ。
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「 生類憐れみの令 」は徳川綱吉公が御触書として発布しているが、じつは生母である桂昌院【 79歳没 】の発案であると言われている。
そして、桂昌院に入れ知恵を行なったのが、桂昌院が寵愛していたと言われている知足院住職の隆光【 75歳没 】だったと昨日の記事でも、お伝えしたとおりだ。
出家して仏門に入った先が茨城県の筑波山にある知足院だった桂昌院と、知足院の住職だった隆光が、つながりを持ったということだ。
しかし、どうも桂昌院自身も、進んで生類憐れみの令の施行には熱心だった様なのだ。
その理由として、当時の時代背景には「 切捨御免 」などによる、辻斬りなどが横行していたことに心を痛めていた桂昌院の意思が反映されていた。
人にやさしく、生き物にやさしく接することを法律として成立させる。
それが綱吉の時代に制定された生類憐みの令
( しょうるいあわれみのれい )でした。
当初は桂昌院の、こころあたたまる思いやり政策だった「 生類憐れみの令 」。
しかし、その政策も行き過ぎた「 天下の悪法 」になってしまったのは何故なのか。
一説には当初、御触書まで出して発布された「 生類憐れみの令 」が全く無視されたので、厳罰化をエスカレートさせたということだ。
ちなみに、藩邸の前出行き倒れた人を放置した藩主なども「 困った人を見捨てた 」との理由から、切腹を命じられたとの事だ。
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生類憐れみの令では報奨金制度も用意されていた。
動物への虐待を目撃した場合、密告したものには、報奨金を出す制度も有ったという。
その額は50両で今の貨幣価値で約650万円である。
これは、報奨金欲しさにガセネタを報告して冤罪に処された物も出てきたとしても何ら不思議ではない。
この生類憐れみの令は6代将軍の家宣公になった後、10蚊( 日 )後に廃止された。
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